モナコのオペラ劇場
今回はモンテカルロ歌劇場についてです。
モンテカルロ歌劇場はモナコのモンテカルロ地区にあります。
モンテはイタリア語で山、カルロは名前でフランス語だとシャルルになります。つまりシャルルの山ですね。
モナコは海辺の小さな国で、坂が多いです。
海辺の街って熱海なんかもそうですが、すぐに山になって坂が多いところってありますよね。
さてモンテカルロ歌劇場の特徴を一言で言うなら「パリオペラ座」と同じ人が作った豪華な建物ということではないでしょうか。
パリオペラ座は世界のオペラ座の中でもとりわけ豪華絢爛で、その重厚さと美しさはため息が出るほどです。
現代の建築とはまるで異なる建物です。
そんなパリオペラ座を作ったのがシャルル・ガルニエという人で、パリオペラ座は別名「ガルニエ宮」と呼ばれます。
そのシャルル・ガルニエが作ったもう一つのオペラ座がモンテカルロ歌劇場なのです。
ガルニエと言う人は神殿に興味があったようで、確かに彼の作るオペラ座は神殿を思わせる建物です。
ただ、モンテカルロ劇場がある建物はカジノ主体の複合施設で、劇場自体は500人強と比較的小ぶりです。
とはいえ過去に有名なオペラの初演も上演されている場所です。
シャルル3世とプリンセス・アリス
モナコは1860年に大半の領土をフランスに渡して小さな独立国家となりました。
その時の在位していたのがシャルル3世で、彼は領土が小さくなってしまったモナコで元々手がけていたカジノビジネスを伸ばしていくことになります。
一時は国の収入のほとんどがカジノだったとも言われている程中心的な存在だったわけですね。
そしてカジノにはオペラハウスも作られました。1879年のことです。
当時から国民には所得税がかけられなかったと言いますから、うらやましいというか‥(笑)経営手腕があったっていうことなんでしょうね。
そしてオペラ座の発展に大きく影響したのはシャルル3世の息子アルベール1世の2度目の妻であるアリス・エーヌだったと言います。
プリンセス・アリスはアメリカ生まれですがもともとフランスの血も入っており、大叔父は詩人ハイネだったと言います。
アリスはアルベール公と結婚したのちモナコをオペラやバレエで文化の中心にしようと頑張ったんですね。
そういう人がいないとなかなかオペラって盛り上がらないだろうなと言うのは昔のことながらわかるような気がします(基本的にはオペラってなくてもいいものだから‥)。
アリス・エーヌは美しい女性でフランス社交会の花形でした。あのマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の中にでてくるリュクサンブール公女のモデルになったと言われている人でもありますね。
「失われた時を求めて」は私が読むのを断念した本なので、そんなシーンがあったか、そこまで読んでなかったのかは全く覚えていないのですが‥(笑)
アリスが関係しているかどうかはわかりませんが、モンテカルロ歌劇場には当時大人気だったネリー・メルバやカルーソー、シャリアピンなんかも来ているんですよね。
特にシャリアピンに関しては、マスネのオペラ「ドン・キショット」の初演がこのモンテカルロ歌劇場で行われており1910年のこと。
ドン・キショットは珍しくバスが主役のオペラなのですが、初演で歌ったのが有名なシャリアピンだったのです。
伝説の大歌手をよべたと言うことからもこの歌劇場には関係者が当時すごく力を入れていたって言うことがわかる気がするのです。
ちなみにこれは余談ですが、当時モンテカルロにはグランドホテルがありました。
リッツホテルを作ったリッツが経営(支配人かな?)していたホテルです。
そこで一時期シェフにエスコフィエをよんでいるんですよね。
エスコフィエはのちにサヴォイホテルでローエングリンを歌った後のネリー・メルバにデザートを出してそれが有名な「ピーチ・ネルバ」になるんですけど、当時のサヴォイホテルの支配人がやはりリッツでした。
リッツとエスコフィエはモンテカルロのグランドホテルでも歌手たちの食事やデザートを作っていたのかなあと関係ないことをつい想像しちゃうのでした。(笑)
こけら落としはフランスのオペレッタ
モンテカルロの歌劇場は公にはカジノと同じ入り口からはいるのですが、当時は西側にシャルル3世用の入り口があったといいます。
オペラはもともと貴族中心の世界ですから、王様たちが入る入り口というのは古いオペラハウスでは作られていたようで、例えばウィーンの国立歌劇場もかつては王宮の方から直接来られる通路があったと言います。
モンテカルロのカジノは1870年の建築ですが、歌劇場はもともとはオペラ用のホールではなく、
その後文化の中心とするべくきちんとオペラもできなくてはいけない、ということだと思いますが
オペラに使えるように改造されました。オーケストラピットをちゃんと作ったとかそういうことなのかなと思います(想像ですが)。
さてオペラの劇場というのはどの演目を一番最初に上演するか、つまりこけら落としを何にするかというのは、熟慮するところではないかと思います。
傾向としてはその国の作曲家だったり、そうでなくても何かしらゆかりのある演目にするようです。
日本の新国立劇場の場合は1997年で、團伊玖磨さんのオペラ「健TAKERU」でした。
やはり日本の作曲家ですね。
モンテカルロの劇場ホールの発足は1879年のことで、その時の公演はロバート・ジャン・ジュリアン・ブランケットという人が作った「ル・シュヴァリエ・ガストン」というオペレッタでした。このオペレッタは残念ながらみたことはないのですが‥。
一幕もののオペレッタでこの時のために作られた初演作品です。
この時はまだ劇場がオペラ用に改造される前だったのでどんな風にオーケストラを置いたのかとかその辺はわかりませんが、500人強が入る比較的小ぶりのホールなので
一幕ものでオペレッタというのはちょうど劇場の規模にはあっていたかもしれません。
作曲したブランケットは1848年フランスのパリ生まれで当時は30歳という若さ。
どういう繋がりで彼のオペレッタが上演されたのかは残念ながらわからないのですが、この時に当時大人気だったサラ・ベルナールが登場したと言いますから、ほー!そうなんだと私は思ったのでした(笑)。
その後もこのモンテカルロ歌劇場ではいくつかの有名なオペラが初演されています。
マスネの「ドン・キショット」1910年(5幕)
プッチーニの「つばめ」1917年(3幕)
ラヴェルの「子供と魔法」1925年(1幕)
など。
最初が1幕ものでしたが、結構重そうなオペラも初演していますね。
マスネの「ドン・キショット」というオペラは難しいのでなかなか上演されることがなく、私も見たことがありません。マスネは好きだし、すごく見てみたいオペラのひとつなんですよね。
人気歌手のシャリアピンを呼ぶことができたこの頃が全盛期だったのかも。
とはいえプッチーニの「つばめ」についてはもともとはウィーン(オーストリア)で初演のはずだったのが、時代は第一次世界大戦の頃で、
イタリアの領土をめぐってプッチーニの祖国イタリアとオーストリアは敵国同士だったのでウィーンでの初演ができなくなってモンテカルロになったという時代背景がありました。
オペラもそういう影響を受けているんだなあと改めて思います。
また、ラヴェルの子供と魔法は、バレエとオペラが合体したようなオペラ。モンテカルロといえばバレエも有名なのでそれでか?と思ったけど、モンテカルロがバレエで有名なるのはもっと後のことでした(笑)
「子供と魔法」も元はパリオペラ座で上演されるはずだったのがモンテカルロに移行した結果の上演。オペラの世界もいろいろあります。
ちなみに余談ですが、私は生で「子供と魔法」をみたのは一度だけですが、その時はバレエがなくて‥。
オペラってバレエがなくなるって割とあります。予算の都合なのか演出の都合なのかわかりませんが、やっぱりこのオペラには欲しい!と思うのでした。
モンテカルロはホテルが高いので安く旅行をしたい人にとっては泊まるのはなかなか厳しいのですが、とても小さい国なので素通りしながら(笑)カジノのオペラ劇場をみるのもいいと思います。
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