「椿姫」の原作はどんな話?小説ではもっと娼婦感が出ていた

今回はヴェルディの椿姫の原作についてです。

原作はデュマ・フィスというフランスの作家です。

原作とオペラって同じなの?それとも違うの?

ってちょっと気になることがありませんか。

世界中で人気のオペラ「椿姫」。今回はその原作と比較してみました。

デュマ・フィスの椿姫

オペラの原作って戯曲など古いものも多いし、外国のものなので、原作を読もうと思っても無いことの方が多いんですが、

椿姫は小説としても有名なのでありがたいことに原作を読むことができます。

原作を書いたデュマ・フィスはフランスの劇作家で、オペラを作ったヴェルディとだいたい同じ時期を生きた人です。

オペラの主役ヴィオレッタは小説の中ではマルグリットという名前

恋人のアルフレードは小説ではアルマン

マルグリットというのはデュマ・フィスの実際の経験を元に書かれている女性で

実際の名前がマリー・デュプレといいます

その後マリーは病気で亡くなっています。オペラと同じですね。

小説「椿姫」はそんな彼の経験から生まれた作品で、

そのためか全体を通して小説の主人公マルグリットを書く目線は終始どことなくやさしく

愛情に満ちたものがあります。

さて、そもそもなぜ原作を読みたいと思ったかというと、

ヴィオレッタは高級娼婦という設定にもかかわらず、オペラを見る限りどこにも娼婦っぽいものを感じる部分がなかったからです。

純粋で美しく病に侵されているはかない女性。そして健気に身を引く女性ですよね。

高級娼婦ってそういうものなのかなと思いつつ、なんとなく不思議感が拭えなかったのも事実です。

原作「椿姫」の方の冒頭の部分は、ヴィオレッタ(マルグリット)が亡くなった後の家具調度品が競売にかけられるシーンから始まります。

そしてたまたま一冊の本を競り落としたのが作者で、その本を取り戻しに来たのがアルマン(アルフレード)。

そして作者はアルマンから二人のすべての経緯を聞いた人という設定になっています。

原作のヴィオレッタは結構娼婦感がある

さて、原作の椿姫を読み始めてまず感じたことは

結構娼婦感が書かれているんだなということ。

たとえばですけど、劇場に来ているマルグリットにアルマンが声をかけるかかけないかで迷うくだりでは

「お伺いを立てるなんてあんな女にそんな遠慮がいるものか」と言われてしまうような存在なのです。

その他にも

  • 周りにはマルグリットのような種類の女はと言われる存在
  • ピアノがうまく弾けないからと癇癪を起こす
  • みだらな流行歌を歌う
  • 話が下品になるほど嬉しがる
  • 明日来てねといっておきながら、あら忘れていたわとそっけない

というように、いかにも娼婦らしい記述が結構あって

少なくとも二人の最初の出会いでは、マルグリットはアルマンに対してその種の女たちがよくやるようなからかいかたをしていて

なんだ原作はやっぱり娼婦なんだと思うわけです。

現にアルマンの方だって最初はその手の女として見ていて

どうにかしてあの女を手に入れてやる!

というように明らかに下に見た言い方をしていますしね。

ただしマルグリットの美しさといったら、劇場の桟敷席に現れると舞台上の役者までがはっと目を見張るほどの美しさなんですが‥。

という具合に最初のうちはあれ?オペラのイメージとちょっと違うなあと思うのですが、

これらの最初のイメージは読み進めると変わってくるんですけどね。

アルマンは純情だけじゃない

アルマンはオペラではアルフレードで、オペラの中では純真・純情な男性として描かれていると思います。

なんなら初めての恋?と思うような純情さですが、

原作のアルマンは特に初めての恋でもなく、マルグリットに対して

最初のうちは、育ちが悪いが情婦にするならまんざらでもないという意識なんですよね。結構悪いやつ(笑)

また、父親の言葉通りにマルグリットがアルマンとの恋を諦めて元の世界に戻るところは

オペラではパーティーで罵倒するだけですが、原作ではアルマンは別の娼婦とこれ見よがしに付き合い、

じわじわネチネチとマルグリットをいじめるやり方。

真実を知らなかったからとはいえ、ここは原作とちょっと違うかも。

アルマンは純粋純情なだけの好青年というわけではないんですね。

このせいで、マルグリットはぐったりと弱ってしまうし。

オペラではパーティーの場に父が現れますが、原作でアルマンが真実を知るのはもっとずっと後の手紙によるもので、父は現れないんですよね。

しかもオペラと違ってアルマンはマルグリットの死に目にも会えず、だからこそただただ後悔しているわけなのです。

この部分は原作と異なるとはいえ、

即座にパーティーに戻り、それをすぐに追いかけて罵倒するという展開は、結果としてはわかりやすく、台本がうまいなあと感じたところでもあります。

とはいえ、ちょっと素直じゃないアルマンは若い恋にはありがちなあまのじゃくな心だと思えば、純粋だし、

何よりマルグリットが好きでたまらないのは原作を読んでもとても伝わってきます。

ジェルモンの存在は原作のまま

椿姫はヴィオレッタの次に重要なのは父親役のジェルモンじゃないかと思っているのですが、

原作とオペラを読み比べてみて、もっとも原作通りの人物像だと感じたのがこの父親の存在かもしれません。

最初は怖く息子の恋人に圧力をかける感じですが、

マルグリットと話をするほどに、彼女の真の姿を理解して、苦悩しつつも身を引く犠牲を頼むところは

まさに原作通りの人

決していきなり怒鳴りつけるようなタイプではなく、ひたすらまじめで真摯な物言いはよくここまでオペラで忠実に表現できたものと、感心するほど原作そのままです。

オペラにも原作にも度々出てくるのは「犠牲」という言葉。

オペラの第二幕ではやたら犠牲という言葉が出るなあと思っていたのですが、これは原作に忠実だったのね、とわかったわけでした。

それにしても父の言葉の中で

「年齢とともに愛に変わって様々の野心が取って代わる時代が来た時、二人の関係が手枷足枷になることをあなたは慰めきれるものではない」

という言葉は結構ズシンとくるなあと思いました。

デュマ・フィスの言い回しはここに限らずうまいんですよねー。

やっぱりヴィオレッタは気高かった

後半になるとマルグリットとアルマンは、田舎家に移り住んでしばし幸せな生活を送るのですが、

実は原作ではこの田舎家の費用を出していたのは全て老公爵、アルマンは近くの安い部屋を借りて通っていた状態。

表の鍵は公爵、裏の鍵をアルマンという状況。

後半のマルグリットは前半の娼婦っぽさが全くなくなり

贅沢をやめて慎ましく質素な生活を望み、多いとは言えないアルマンの収入で十分やっていこうと堅実な選択を望む女性です

それまでは一家が食べていけるほどのお金をいっきに花代に使っていた女が、一片の草花に1時間も見とれているような

そんな変わりぶりなわけです。

ひそかにものを売ってお金を作っているところはしっかり者の姉さん女房のよう

結果、前半のイメージは読み進むにつれすっかり吹っ飛んでしまって‥。

病魔に侵されつつ、だからといって何かを恨むこともなくひたすらアルマンに思いを寄せる様子は、涙を誘います。

読んでいる私も作者同様、いつの間にかマルグリットに寄り添い、かわいそうでならなくなっているんですね。

そしてこの後半のイメージがオペラ「椿姫」に現れているんだなと納得するわけです。

全文を読むと、娼婦の部分はかき消されちゃうんですよね。

これまでオペラだけ見ていた時はちょっと不思議だった高級娼婦のヴィオレッタでしたが、

そんなわけで今後は少し見る目が変わりそうです。

また、これほど原作のイメージを短い2時間程度の中に凝縮して表現しているオペラも少ないかもしれないとさえ思います。

やっぱりヴィオレッタは美しくて健気で気品がある女性、娼婦っぽさが無くてもそれでいいねと。

ちなみに椿の花は原作では観劇の時にマルグリットが桟敷のテーブルに必ず白か赤の椿の花を置いていたことからきています。

ぜひ機会があれば原作も読んでみるのがおすすめです。

オペラ椿姫の解説のみどころ

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