オペラはイタリアで生まれ、イタリアを中心として発達しましたが、
その中でもナポリは、音楽の首都と言われるほど栄えた都市でした。
ナポリにあるサン・カルロ歌劇場は、現在も現役の歌劇場として残る歴史あるオペラハウスです。
バロックオペラととても関係のある場所と言っていいのではないでしょうか。
ナポリは音楽の首都
ナポリとバロックオペラ
「音楽の都」とか「音楽の首都」と呼ばれるところは、意外に多いです。
たとえばオーストリアのウィーンであったり、
ドイツのライプツィッヒ、オーストラリアのメルボルンなど。
でも、オペラの音楽の首都といえば実はナポリだったということを知ったのは、私がオペラを見はじめてからかなり後のことでした。
オペラに興味を持ち始めると、何かと出てくるのはミラノのスカラ座です。
実際ロマン派以降のオペラについては、かなりの数のオペラの初演がこのスカラ座で行われていたということがあったからかもしれません。
ヴェルディやプッチーニなどもそうです。
ヴェルディは、スカラ座と色々揉めた時期もあったようですが…。
さらに、スカラ座はトスカニーニやアバド、ムーティといった名指揮者のもとで名実ともに世界のトップ歌劇場として君臨していたので、イタリアの歌劇場といえば、ミラノスカラ座と思っていたのです。
ところがバロックオペラに触れるにつれ、ナポリの歌劇場の存在が気になるようになりました。
ナポリの歌劇場
ナポリという土地は、バロックオペラやカストラートの存在を知るにつれて、徐々にその存在が大きかったことがわかってきました。
音楽家を養成する学校の存在、とくに多くのカストラートはナポリで養成されていたことからも
ナポリという土地とオペラの強いつながりがわかります。
カストラートはバロックオペラの花形歌手でしたから。
そして、ナポリの歌劇場で歌うことは音楽家たちがあこがれる頂点の場所で象徴でもあったようなのです。
そんな場所であるのに、現在ではミラノスカラ座の影になってしまっている感があるのは、
バロックオペラが現在あまり上演されなくなっているということがあるのではないでしょうか。
ナポリのオペラが最も栄えた時期と、バロックオペラが栄えた時期は重なっているんですね。
当時、ナポリにはいくつか歌劇場がありましたが、
中でもサン・カルロ歌劇場は、現在まで残っている歌劇場としてはイタリアで最も古い劇場です。
もしはじめてイタリアのオペラハウスに行くとしたら、
今なら、サン・カルロ歌劇場とミラノスカラ座、両方ともおすすめしたいですね。
あと欲を言えば、ヴェネチアのフェニーチェ歌劇場もでしょうか。
サン・カルロ歌劇場
サン・カルロ歌劇場はナポリのある歌劇場で、その創立は18世紀前半のことです。
ロッシーニ
サン・カルロ歌劇場の創立は古いので、多くのオペラが上演されていたのだと思いますが、
18世紀に上演されていたと思われるオペラで、今日まで上演されているものは残念ながらほとんどありません。
その代わり、19世紀になるとロッシーニが現れます。
ロッシーニとナポリ、取り分けロッシーニとサン・カルロ歌劇場はとても縁のある関係だったようです。
というのも、ロッシーニは多くのオペラをナポリの歌劇場のために作曲しているんですね。
19世紀はサン・カルロ歌劇場初演のロッシーニのオペラが数多く見られます。
- エリザべッタ
- アルミーダ
- 湖上の美人
- ゼルミーラ
など。
この時期、ロッシーニはナポリの歌劇場の劇場付き作曲家兼音楽監督でした。
そしていつの時代も女性問題ってあるんだなあと、思うのですが、
ロッシーニはサン・カルロ歌劇場のプリマドンナだったイザベラ・コルブランという歌手と、恋仲になるんですね。
プリマドンナンと作曲家といえば、ジュゼッペ・ヴェルディも、スカラ座のプリマドンナ、ストレッポーニと結婚していますよね。
作曲家とプリマドンナの恋は、珍しいことではないのかもしれません。
一人の女性を意識して作るオペラは、やはりその女性が歌うと素晴らしいものになるに違いありません。
ただ、ロッシーニの恋人は支配人バルバイアの恋人でもありました。
そのため、その後逃避行のようにロッシーニはナポリを離れ、コルブランと結婚しています。
そしてロッシーニのその後を見ると、パリでの活躍や初演が多くなっているのです。
ロッシーニはナポリを離れパリに行ったわけです。
当時イタリアは、パリ同様ブルボン王朝の支配下だったのでイタリアからパリにはいきやすかったのかもしれません。
興行師ドメニコ・バルバイアの存在
歌劇場というのは、作曲家と歌手と管弦楽がいればそれで成り立つというものではないと思います。
歌劇場も経営ですから、ちゃんと成り立つべく、経営を指揮していく人がいないといけないですよね。
音楽監督とともに、劇場のコンセプトやスタンスや経営を考える人です。
そこに優れた人が存在していたかどうかは、歌劇場の優劣やその後歴史に残るかどうかの
分かれ道になったのではないでしょうか。
19世紀のナポリで、歌劇場の経営に采配を振るった人物に、ドメニコ・バルバイアという人がいました。
サン・カルロ歌劇場の支配人で、コルブランの恋人でもあった人物です。
ナポリより先に、ヴェネチアでも、オペラは歌劇場として栄えましたが、
その裏にも歌劇場興行師の手腕による功績がおおきかったのではないかと思います。
そして、ナポリが19世紀に栄えたのもやはり、そうだったのだと思います。
ドメニコ・バルバイアという人は、作曲家でも歌手でもなく、カフェの経営から始まっている実業家なんですね。
彼は、サン・カルロ歌劇場にロッシーニを呼び、そしてその後ドニゼッティも呼んでいます。
そして、ナポリの歌劇場のみならず、ウィーンのケルントナートーア劇場(現在のザッハホテルにあった劇場)の経営も一時任されていることを見ても、
いかにバルバイアが歌劇場の経営に長けていたのかがわかる気がします。
音楽の世界だって利益が出ないと出演料も払えないし、売上と経費という基本は同じですもんね。
歌劇場の繁栄の裏には支配人の手腕ありなのでしょう。
バルバイアという人は1826年からミラノのスカラ座の監督にもなっているんですよね。
ドニゼッティ
ロッシーニがナポリからいなくなった後、バルバイアは、ドニゼッティをよんでいます。
ドニゼッティをよんできてしまうバルバイアの交渉力もすごいと思いますが
ロッシーニは当時かなり有名だったので、そのロッシーニの後を受け継ぐように行くのは
ドニゼッティとしても、名誉なことだったのでしょうか(単なる想像ですが…)。
そして、ドニゼッティは、ナポリのオペラ、特にサン・カルロ歌劇場のために多くのオペラを残しました。
中でも有名なのが、ランメルモールのルチアです。
ルチアはこの地で初演されているんですね。
サン・カルロ歌劇場での初演が1835年。
ドニゼッティが38歳の脂がのったときです。
ちなみにドニゼッティも、その後パリでの活躍が目立っています。
- 連帯の娘
- ラ・ファヴォリータ
- ドン・パスクワーレ
など、多くのオペラをパリのために書いています。
ナポリ→パリと移っていったところは、まるでロッシーニの後を追いかけているかのようです。
いずれにしても、ロッシーニ、ドニゼッティと大物作曲家がかかわったこの時期のナポリ、サン・カルロ歌劇場は
今から思うと黄金時代だったのではないでしょうか。
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