プッチーニとオペラの台本

プッチーニのオペララ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」は、世界中のオペラハウスで上演されている人気オペラです。

プッチーニという人は顔からもちょっと想像できるのですが、なかなか我が道を行くというか個性的なタイプだったようなんですよね。

プッチーニという人

 

ジャコモ・プッチーニは1858年に、イタリアのルッカというところで生まれます。

ルッカはイタリアの北部にある都市で、ロマネスク様式の建築物、中でもルッカ様式と呼ばれる建築物で有名なところです。

赤茶色の屋根にレンガ色の壁。そんなイメージでしょうか。

そんなルッカでプッチーニは音楽家の家系の一人として生まれました。

最初に音楽を教えてくれた父親は、残念ながら早くに亡くなっています。

でも叔父により音楽教育を受けることができ、

ミラノ音楽院で本格的に作曲を学んだんですね。

ミラノ音楽院というのは、同世代だとマスカーニも学んでいますし、もっと後になりますが、指揮者のリッカルド・ムーティやクラウディオ・アバドも出ているところです。

 

イタリア以外のヨーロッパでは、例えばイギリスなどは、オペラが不毛の時代が長らく続いたり、また自国のオペラがなかなかできなかったりしているのですが、

イタリアにおいては、オペラが不毛の時期というのは見受けらないです。

イギリスオペラの歴史

 

プッチーニは、ヴェルディの後を受け継ぐように出てきて、多くのオペラを残しています。

さらに、この時代、イタリアではプッチーニ以外にも、多くの作曲家たちがいました。

という具合に、同じ時代に現在も上演されているオペラが多く残っているのは珍しいことではないかと思います。

切磋琢磨という感じだったのだと思います。

 

実際、プッチーニと同じルッカ出身の、カタラーニはプッチーニをかなりライバル視していたようですし、

マスカーニも、何かと真似をするプッチーニに対して苦言を呈しています。

マスカーニがヴェリズモオペラを作ると、似たようなヴェリズモオペラを作るし、

マスカーニがイリスで日本を取り上げると、プッチーニは蝶々夫人で日本を舞台にするという具合に。

同世代の作曲家たちは火花を散らしていたということでしょう。

 

さて、プッチーニは、同世代の作曲家だけでなく、恋愛についてもいろいろあり、

28歳の時に、夫のいる女性と恋に落ちて、同棲して子供を設けています。

相手は、後に正式に結婚するエルヴィラ

このエルヴィラという人はかなり激しい性格の人で

その後、ずいぶん経ってからですが、妻のエルヴィラは、女中とプッチーニの間を疑ったことで、21歳の女中が自殺し、エルヴィラが訴えられるという事件が起きているんですね。

「ドーリー・マンフレーディ事件」と呼ばれており、映画にもなっているくらいです。

プッチーニが50歳の頃のこと。

疑り深い妻を持つといかに大変かと思ってしまいます。

現在なら間違いなく週刊誌やテレビで取り上げられそうな事件です。

この事件の前後は、プッチーニのオペラの作品がちょっと空いているんですよね。作曲どころではなかったということなのか‥。

 

さて、プッチーニは家にもずいぶん興味があった人で、何軒もの家を持っていました。

長く貧しい生活が続いていたプッチーニに最初の成功が訪れるのは、マノンレスコーというオペラの成功なのですが、

最初の成功で2棟の建物を購入、その後郷里のルッカの近くにも2棟購入、

またミラノに住み、ボスコルンゴという山の中には別荘を構え

ルッカのヴィアレッジョというところにも別荘を建設するという具合に

かなりの家好き、不動産好きだったのかと想像します。

 

プッチーニのオペラと台本

 

マノン・レスコーとレオンカヴァッロ

 

オペラの成功の鍵は、音楽はもちろんのことなのですが、

台本というのもとても重要な要素になります。

 

オペラには芝居がありますから、やはり台本の良し悪しはオペラの良し悪しに大きく影響するのです。

プッチーニの成功の影には台本の成功がありました。

 

プッチーニが最初の成功をおさめたのはマノン・レスコーというオペラでした。

このオペラの台本には多くの作家が関わっています。

 

プッチーニは、台本にも強いこだわりがあったようで、気に入らないと別の人に頼むということをやっていたようで、その中には、レオンカヴァッロと、イッリカとジャコーザもいました。

レオンカヴァッロは道化師を書いたオペラ作曲家ですが、文才もあり、自身で台本も手がける人だったんですね。

 

さて、レオンカヴァッロはマノン・レスコーの後、プッチーニに対して、ラ・ボエームを一緒に作ることを持ちかけました。

自分が台本を書くからプッチーニが作曲をしてみたらどうか、という提案でした。

その時プッチーニは断ったので、レオンカヴァッロは仕方なく自分で台本を書いて、作曲も自分でやり始めました。

ところが、プッチーニはラ・ボエームのストーリーがやはり気になってのでしょう。

 

プッチーニはその後ラ・ボエームの作曲を始めるのです。

レオンカヴァッロの提案をはねのけた理由がなんだったのか、

マノン・レスコーで一緒に仕事をしてみて、レオンカヴァッロの台本が気に入らなかったのか、もしくはそもそも二人が相性が悪いのか、詳細はわかりませんが、

とにかく断っておきながらラ・ボエームを自分も作り始めて、レオンカヴァッロが初演する1年前に初演してしまいました。

これにレオンカヴァッロが怒らないわけはありません。

二人の関係はその後うまくいかなくなったのは当然の流れです。

もっともそういうことを気にしないのがプッチーニの性格ではないかと思います。

 

ジャコーザとイッリカの台本

 

プッチーニの中でも有名な作品は

で、この3作品は世界中で度々上演されている人気演目です。

この3作品の台本には全てジャコーザイリッカという人物が関わっています。

レオンカヴァッロの提案を断ったプッチーニは、ラ・ボエームの台本をイッリカとジャコーザの二人と組んで作曲して大成功しているんですね。

結果的に、現在ラ・ボエームといえばプッチーニの方で、レオンカヴァッロのラ・ボエームはあまり上演されないことを見てもわかるように、プッチーニにとっては結果的に良かったのでしょう。

もっともこの二人と組むことについては、リコルディ社という楽譜会社の進言があったようです。

 

プッチーニとジャコーザとイッリカのうちで、ジャコーザはもっとも年上で1906年に亡くなってしまいます。

その後プッチーニが作曲した西部の娘は、別の人の台本になっています。

 

イッリカはプッチーニとほぼ同じ年なのですが、二人の気性は荒かったようでジャコーザ無しでは合わなかったのか

残った二人での作品というのは無いのです。

 

西部の娘は、それまでとは全く異なる舞台設定で西部劇のようなストーリー。

もっとも西部の娘は初演がアメリカのメトロポリタン歌劇場(指揮はトスカニーニ)ですから、

それに合わせてのものだったと思います。

ラ・ボエーム、トスカ、蝶々夫人ほどの知名度はありませんが、西部の娘というオペラもプッチーニらしくハラハラする展開のオペラ。

また、その後は三部作という3つの短いオペラや、トゥーランドットも作曲しているプッチーニはやはり作曲家としてさすがだなと思います。

個人的にはトスカの台本がもっともよくできていて、見やすいのでは無いかと思っています。

 

イッリカについてつけ加えると、彼は

マスカーニには→イリスというオペラの台本を提供し

プッチーニには→蝶々夫人の台本を提供しています。

 

どちらも日本が舞台のオペラ。

イリスもおもしろい曲だと思いますが、残念ながらあまり上演されることはありません。

やはりオペラは、台本の良さも大事、全てがうまく行くのが、一番なんだなと思いますが、それが難しいからずっとおもしろいところでもあると思います。

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