私はオペラが好きですが、明るいオペレッタも大好きです。
今回はオペレッタの歴史についてです。
オペレッタの歴史の始まり
オペレッタというとどんな言葉が浮かびますか。
私の場合は
- ウィーン
- ヨハン・シュトラウス
- ラデツキー行進曲
などが浮か日ます(ラデツキー行進曲はオペレッタの中の曲ではないんですが)。
オペレッタの歴史の基礎を作ったのは、実はウィーンではなくフランスで、
代表的な人はオッフェンバッハという作曲家でした。(オッフェンバックともいいますね)
オッフェンバッハが、生まれは今のドイツですが
彼はチェロを習うためにフランスのパリ音楽院に入り、
その後終生のほとんどはフランスで過ごした人です。
ただ、フランス二月革命の頃は難を逃れてドイツに戻っています。
日本のような島国と異なり陸続きだということを、オッフェンバッハの行動を見てもつい思ってしまいます。
日本だとすぐに他の国にというわけには行かず‥。
さて、オッフェンバッハはチェロから次第にオペレッタの作曲に移行し、音楽と喜劇を融合させていきます。
喜劇と音楽の合体がすなわちオペレッタというわけです。そう言えばそうだなと思いません?。
特に1858年の天国と地獄はもっともオペレッタの歴史上有名で、さきがけといえる作品となりました。
天国と地獄の底抜けに明るいフレンチカンカンの踊りと、一度聴いたら忘れない曲は、
当時の人々の度肝を抜いたことと思います。
日本では運動会の曲で定着していますね。
天国と地獄はという作品は一見どんちゃん騒ぎのようなオペレッタですが、曲はとても美しく、オペラ歌手が朗々と技量を発揮するオペレッタなんですよね。
おそらく初めて見た人たちは、こんなふざけた内容はありなの?と思ったのではないでしょうか。
実はこの作品は内容と軽快な音楽で大衆には絶大な人気があった一方で、知識階級からは批判が多かったのも事実。
というのもこのオペレッタには痛烈な風刺やパロディーも込められていたので、反対派も多かったんですね。
知識階級から見たら「品が無い」となったわけです。そういうのほど面白いっていうのもなんかわかる‥。
そんな天国と地獄の絶大な人気は陸続きのヨーロッパではすぐに各地に広まっていきます。
そしてウィーンにも影響を与えていったのです。
ウィーンのオペレッタ
当時のウィーンは18世紀以来、大衆向けにはジングシュピールと呼ばれる娯楽音楽劇が盛んでした。
ジングシュピールは歌芝居、歌つき娯楽劇といった意味で
さて、ウィーンのスッペという作曲家は軽騎兵という曲で有名な人なのですが、
彼はオッフェンバッハから強い影響を受けてオペレッタを作り始めるんですね。
そこからウィーンのオペレッタの歴史が始まります。
スッペはオッフェンバッハの「美しきエレーヌ」というオペレッタをまねて、
「美しきガラテア」というオペレッタを作曲し人気を得ます。
そして、次々とオペレッタの作品を生み出していったのです。
すごいですよねー。
その後1874年にはヨハン・シュトラウスの「こうもり」が出てきて、ウィーンのオペレッタの歴史はパリのそれを超えて盛んになり、
オペレッタといえばウィーンというイメージがつくまでになっていくのです。
ヨハン・シュトラウスのオペレッタはウィンナーワルツが多く使われ、風刺もなくどちらかというと上品なオペレッタなのに対し
スッペのオペレッタはオッフェンバッハの影響が強いところが特徴です。
スッペの代表作はボッカチオというオペレッタ。
周囲の怒りをかいながら女性には人気がある男のお話、袋叩きにあいそうになると、
するりとうまく逃げるという、ボッカチオの小気味好いストーリーです。
「まあいいじゃない」というところはやはりオッフェンバッハ的だと思います。
オッフェンバッハの天国と地獄にはフレンチカンカンが入りますが、
シュトラウスなどウィーンのオペレッタの歴史にはフレンチカンカンは見られません。
その代わりにウィンナーワルツが入ります。
やっぱり上品ですよね。(個人的にはフレンチカンカンは大好きですけど‥笑)
20世紀になるとそれに加えハンガリー音楽が入り、ウィーンのオペレッタの歴史はさらに豊かな音楽が加わることになっていきます。
レハールやカールマンといったハンガリー生まれの作曲家が出てきたからです。
レハールの代表作はメリー・ウィドウ、カールマンの代表作はチャールダーシュの女王です。
特にカールマンのオペレッタはハンガリーの色が強く、チャールダーシュの音楽が多く入っていますね。
エキゾチックなチャールダーシュ、私は大好きです。
イギリス・アメリカのオペレッタ
オッフェンバッハの天国と地獄の人気は海を超えてイギリスにも行き、
イギリスではサリバンという作曲家がミカドというオペレッタを作っているのも歴史上興味深いことです。
ミカドは日本が舞台なんですよね。1885年の初演です。
実は日本を舞台にしたオペラは蝶々夫人だけではないのです。
- サリバンのミカドの初演・・1885年
- マスカーニのイリスの初演・・・1898年
- プッチーニの蝶々夫人の初演・・・1904年
これらのオペラは全て舞台が日本なんですね。
マスカーニのイリスはお江戸が舞台。
プッチーニの蝶々夫人は長崎が舞台です。
遠いヨーロッパで100年以上も前に、オペラで日本が取り上げられていたというのは
なんとも不思議な気がしませんか。当時観た人たちに日本はどんな風に映っていたんだろうなあと。
またオペレッタの人気は19世紀〜20世紀前半にかけて遠いアメリカにも影響を及ぼし、やがてアメリカではミュージカルの歴史が生まれていきます。
第二次世界大戦が始まると、さすがに激動の世の中をオペレッタで風刺するのは限界があったのでしょう。
オペレッタはより柔軟な形式のミュージカルという形に変わっていくんですね。
特に大戦後のアメリカの庶民音楽はミュージカルが主体となっていき
音楽で様々なことを表現するようになります。
そして20世紀の初め頃はブロードウェイ劇場の建設ラッシュとなっていきます。
日本のオペレッタ歴史
さて、日本のオペレッタの歴史はどうかというと1911年に帝国劇場ができ、オペラやバレエが上演されるようになるのですが、
オペレッタが上演されたのは1914年です。
アメリカでブロードウェイが建設ラッシュの頃ですね。
この時天国と地獄が上演されますが残念ながら、あまり人が入らなかったようです。
ところがその後の浅草オペラでは日本人に合うように練りに練って上演した結果、天国と地獄は大人気を博したんですね。
そのため、カンカン踊りといえば浅草オペラというイメージを覚えている人は、今もいるのではないでしょうか。
さすが浅草という感じです。見たかったなあ。
この時の花形スターは田谷力三さんという人です。
ところが残念なことに浅草オペラは1923年の関東大震災で壊れてしまい、その後復活することはありませんでした
そのため浅草オペラの歴史はたった6年しか存続していなかったんですね。
仕方がないとはいえとても残念なことです。
この時壊れていなければもう少し早く日本でもオペラやオペレッタが浸透してたかもしれないと‥。
その後1934年にテノールの藤原義江が藤原歌劇団を立ち上げ、オペレッタを上演するようになります。
藤原歌劇団はそれから今までずっと続いていますね。
現在日本のオペラは主に藤原歌劇団と二期会、そして新国立劇場が多いのですが、藤原歌劇団が古い歴史があるということになります。
とはいえ日本ではなかなかオペレッタは定着したとは言い難かったと思います。
1952年に芸大出身者を中心として二期会が創立され
1970年代になると、レハールのメリーウィドウや、ヨハン・シュトラウスのジプシー男爵も上演され、
徐々にですが日本のオペレッタの歴史もようやく上演回数が多くなっていきます。
この頃の有名な歌手には立川澄人さんがいますね。
同時に日本にはアメリカ経由でミュージカルも入ってきて徐々に盛んになります。
アメリカのブロードウェイの劇場建設ラッシュのころ、日本でも宝塚劇場が発足します。
宝塚劇場は、1914年の初公演から現在まで続いていて、日本独自のミュージカルとして発達し続けています。
いまも大勢のファンがおり、夢のような世界を演出しつづけているのはすごいことではないでしょうか。
女性だけの劇団というところも珍しいですよね。
そして1953年にはミュージカルの歴史上欠かせない劇団四季も出来てきます。
浅利慶太さんや、日下武史さんといった、学生で立ち上げた劇団四季は
今では、年数千回の上演という驚くべき回数をこなし、日本の歴史にミュージカルを完全に定着させたといってもいいでしょう。
劇団四季の初期の頃は上演回数も多くなかったです。
だから、現在の劇団四季の活動には本当に目を見張るものがありますね。
一方オペレッタはオペラの範疇として現在も主に藤原歌劇団や二期会が取り上げていますね。
19世紀のフランスから始まったオペレッタの歴史、
そこから各地で形を変えつつミュージカルとして発達し、
一方オペレッタも伝統を重んじつつミュージカルとは異なるものとして引き継がれているといっていいでしょう。
日本も新国立劇場が出来て、本格的なオペラやオペレッタがますます盛んになりつつあります。
まだまだ、あまり紹介されていない演目がたくさんありますし
これからますます楽しみです。
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