エウゲニー・オネーギンの原作(プーシキン)を読んでみた〜オペラを見る前に

今回はエウゲニー・オネーギンというオペラの、原作の小説についてです。

というのも、このエウゲニー・オネーギンというオペラやっぱり原作を読まなきゃ、と思うオペラの一つだからです。

エウゲニー・オネーギンの原作はプーシキン

オペラを作曲したのはチャイコフスキーです。

ロシアのオペラの中ではとてもポピュラーな演目で、時には初心者向き演目に位置付けられたりするのですが、

その割には難しいオペラではないかと私は思います。

私は最初に見た時、正直なところその良さがわかりませんでした。

というのは、モーツァルトやロッシーニのオペラのように気楽に見られるストーリーというわけでもなく

ヴェルディのオペラのように劇的なストーリーかというとそうでもなかったので

なんでこのオペラがそんなに有名なんだろう?と思っちゃったんですよね。

私が思うに、オペラは基本的に難しいストーリーはそれほどないし、好きか嫌いかで楽しめればいいと思っているのですが、

それでも時々やっぱり原作を読んだほうがいいんじゃないかと感じるのです。

その一つがエウゲニー・オネーギンなのです。

そんなわけで今回プーシキンのエウゲニー・オネーギンってどんな物語なのかオペラとどう違うのか、どっちがどうなのかについて書いてみました。

プーシキンの作品

プーシキンのオペラ作品

ロシアのオペラにはプーシキンの物がとても多いです。

「ボリス・ゴドゥノフ」や「スペードの女王」、「金鶏」、「ルスランとリュドミラ」、ダルゴムイシスキーの「ルサルカ」など。

ちなみにルサルカはドヴォルザークのものが有名ですけど、ダルゴムイシスキーの方のルサルカです。

そもそもプーシキンっていう人はどんな人かを私なりにざっくり言うと、

1799年モスクワの生まれでわずか37歳という若さで亡くなっています。しかも亡くなり方は決闘です。

でも、たった37歳までしか生きられなかったにもかかわらず彼が残した作品はロシアにとって意義が深く

プーシキンはロシアの近代文学の基礎を作ったとか、文章としてのロシア語を確立したとか言われるのです。

つまりロシア語にとってとても重要な人物なわけなのです。

プーシキンという人はも書くし、散文小説も書きました。散文というのははいわゆる普通の文章ですよね。

そのほかに韻文小説と呼ばれる物も書いていて、それが今回のエウゲニー・オネーギンです。

韻文小説って

エウゲニー・オネーギンというオペラの解説には必ずと言っていいほど決まって「プーシキンの韻文小説が元になっているオペラで‥」

という解説がつくのですが、韻文小説って聞いてパッとわかる人ってどれくらいいるのかなと?。

少なくとも私はわかりませんでした。

なんとなく韻を踏んだ文章なのかな、なんだろうそれ?くらいなもんです。

実際に読んでみると(日本語に訳したものですが)

例えばこんな感じです。

さあ諸君 野原へ出給え 急いで急いで。
ぎっしり積んだ箱馬車に
自家の馬なり駅馬なり とにかく繋いで
ぞろぞろと市の門から出て行き給え。
(プーシキン エウゲニー・オネーギン 講談社より)

詩みたいですよね。

でも普通に散文みたいなところも多々あります。例えば

どことなく妙な感じの田舎育ちの気取った娘
顔色も変に蒼くてやせっぽちだが
なかなかの器量よしだと見て取った。

これが続くと普通の文章ですよね。

おそらく韻についてはロシア語がわからないと正しく理解できないとは思うのですが、

実際にプーシキンのエウゲニー・オネーギンを読むと、詩を読んでいるような気分になるとともに

それでもちゃんと物語が進んでいくし、ちゃんと理解できる独特の言い回しであることがわかります。

私などはそもそも詩にあまり縁がないので、詩というとどうしても短いものという印象を持ってしまうのですが、

詩の形式を取りながら長い小説ってあるのねと、それ自体が不思議でした。

本当は韻文小説が先に生まれてその後→散文と言う流れらしいのですが、

散文が当たり前の現代にいると、かつては当たり前だった韻文小説が不思議に思えたと言うことだと思います。

ただ、この物語を読んでいくと韻を踏むことに疲れてきたとぼやいているプーシキン自身がいるんですよね。

だから途中、散文ぽくなったりしているのかもしれません。

そう‥、エウゲニー・オネーギンにはプーシキン自身が出てくるのもちょっと意外な設定でした。

エウゲニー・オネーギン原作を見てみる

プーシキンの一人称

エウゲニー・オネーギンというオペラはタチヤーナという若い女性と、エウゲニー・オネーギンという男性が中心になっている物語ですが、

実際の原作はプーシキン自身が「私」として出てきて全てを見て観察しているのです。

タチヤーナの手紙を持っているのもプーシキン自身だし、共に悲しみ共に喜んでいる書き方なのです。

プーシキンはオネーギンのことを我が友人、もしくは我が主人公ヒーローとよび、

タチヤーナのことは愛しいタチヤーナ我がミューズと呼び、恋するように思いを寄せ(実際に文中で愛しているというほどに)

そして時には読者諸君!と読む人に語りかけながら物語詩が進んでいくのです。

おもしろくて不思議ですよね。

さて、プーシキンの作品を読んでいくと彼には理想の女性像があるのを感じます。

それは物静かでおしとやかで恥じらいがあり多くを語らず純真無垢で清らかな女性(うーん‥なかなかいないと思うけど)

そして愛する人の為には時に勇気を出して行動もするような理想の女性。

そんな女性を書いているので、おそらくプーシキンは自分で書いたタチヤーナに恋してしまうくらい気に入っていたのかと思います。

物語の中にはプーシキンという名前の登場人物はいないのですが、彼の目線でずっと描かれているんですよね。

オペラ「エウゲニー・オネーギン」ではタチヤーナがオネーギンに対して書く恋文、いわゆる手紙のシーンがとても有名なのですが、

原文では手紙は私(プーシキン)の手元にあって、これを下手かもしれないけど訳します、となっているんですよね。

手紙のシーン・元はフランス語だった

プーシキンはロシア語の文語の祖を築いたとされるのですが、実際にそれが垣間見えるのがこの手紙のシーンです。

実はタチヤーナの手紙はもともとフランス語で書かれているという設定になっています。

これは当時のロシアの特に西部にはオランダ語やドイツ語、フランス語が入ってきていて

まだロシアにロシア語はあっても公用語とはなっていなかった時代だったということがあります。

中でもロシアの上流階級フランス語を使っていて、文章にするときはフランス語を使っていたという背景があるわけです。

ラブレターなら特にそうだったようで‥。

タチヤーナはロシア語をあまりよく知らず、オネーギンへの手紙をフランス語で書いたという設定になっているのです。

そしてプーシキンはこの韻文小説の中で、ロシア語は散文に(今はまだ)馴染まないけど、でも誇り高きロシア語で読んでもらいたい。

ロシア語が得意でなくてもたどたどしくてもいいから、きっと魅力的な言葉だからロシア語を母国語にしたい

ということまで本の中で書いていることがちょっと驚きなんですよね。

というのもまさにプーシキンの希望通りに、彼の作品はロシア語の基礎となっていったわけですから。

そういう意味でもエウゲニー・オネーギンというオペラ作品はおそらくロシア国民にとってはかけがいのない作品なんだろうなと思うわけです。

手紙のシーンはほぼプーシキンの元の言葉のままオペラで歌うので

もし本を読まない場合でも、手紙のシーンだけは何かしらで目を通しておくと良いのではないかと思うところです。

私はオペラ鑑賞のコツとしてアリアの字幕はあまり見なくても大丈夫と別の記事で書いているのですが、

エウゲニー・オネーギンに限っては(とりわけ手紙のシーン)、言葉がとても重要なので字幕は是非とも見たいところです。

ロシア語がわかればそれにこしたことはありませんが、日本語になっていても十分にプーシキンの詩的な文面は伝わってくると思うからです。

そしてもう一つ原作を読んだ方がいいと思う理由はオネーギンの人となりがよくわかることです。

オネーギンの人となりを原作からみる

オペラの「エウゲニー・オネーギン」でタチヤーナが田舎のおとなしい女の子から上流社会の公爵夫人への変貌を遂げる様子は、原作も同じで、オペラでもその変貌ぶりはオペラの見せ所の一つでしょう。

物語詩の中で、公爵夫人への変貌を遂げたタチヤーナは

彼女は急ぐふうもなく
冷淡でもなく多弁でもなく
人目を惹こうなどという野心も見えず‥
一切が伸びやかで単純‥
紳士らは彼女の視線を捉えようとて念入りに腰をかがめ‥
(同じくプーシキン エウゲニー・オネーギン 講談社より)

という具合に書いてあって、オペラのイメージとだいたい似てますよね。

ただ、オペラでわかりにくいのはオネーギンの人となりではないかと思うんですよね。

何故に世間を斜に見て、タチヤーナの手紙を冷たく拒否

そのくせ数年後にタチヤーナを追いかけ回すのか。

オペラではタチヤーナは一回だけ熱烈な手紙をオネーギンに書いていますが

原作では、オネーギンの方は再会したタチヤーナに一度だけでなく何度も手紙を送っているのです。

いったいオネーギンってどんな青年貴族なのかは、オペラではわかりにくかったのではないかと。

少なくとも私はしっくりこなかったです、いったいどんな人なの?と。

その辺りは原作のプーシキンのエウゲニー・オネーギンを読むととてもよくわかると思います。

父親が亡くなり貪欲な債権者が群がった時に、運命を受け入れて全ての遺産を投げ出した経緯や

叔父の代わりに田舎の地主貴族となったものの、

改革を受け付けない閉鎖的な田舎の人々は彼を変人扱いし、

小川のせせらぎも三日で飽きてしまい、日毎にもの憂くなる様子。

早い時期から社交界のくだらなさに気付き、快楽を避け気まぐれな貴婦人たちの戯言を避けていくうちに

徐々に彼の言葉は毒と針を含み辛辣になっていってしまう、そんな様子は、

なかなかに複雑なのですが、プーシキンの物語詩を読むととても納得するし、見事に表現されているんですよね。

そしてプーシキンがオネーギンのことを愛おしく我が主人公、と呼び続けるのもわかるのです。

このオペラは、オネーギンという男性が単に昔振った女性にしっぺ返しをくらうという単純な話ではないことは確かで、

生きるのが不器用なオネーギンに憐れこそ感じることはあっても、嫌な人物とはどうしても思えなくなるはずです。

プーシキンのエウゲニー・オネーギンは読みやすく散文調になったものもあります。どちらも内容的にはほぼ同じなので、オペラを見る前に読むと良いのではないかと思います。

オペラ「エウゲニー・オネーギン」についてはこちらもどうぞ↓

「チャイコフスキーのオペラエウゲニー・オネーギン言葉が重要なオペラ」

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