ジョアッキーノ・ロッシーニは1792年のイタリア生まれ。
ロッシーニというとセビリアの理髪師が最初に浮かんでしまうので、
明るいオペラブッファ(喜劇)のイメージが強いのですが、
それはセビリアの理髪師ばかりが注目されていたからということもあったと思います。
実際にはオペラセリア(正歌劇)やグランドオペラも書いています。
そして美食家としても名前を残しているんですよね。
ロッシーニ・イタリア時代
ロッシーニという人はイタリア生まれで生涯で40近いオペラ作品を作りました。
76歳で亡くなっているのですが、オペラを作っていた期間は意外に短く
18歳頃から37歳でした。作り始めるのも早いけど、やめるのも早いという感じです。
当時としては比較的長生きの方だと思いますが、オペラに携わったのは約20年間なんですね。
その割にオペラ作品の数が多いのは、作るのがとても早かったということです。
1年に3、4個のオペラを作っていた時もあったようです。
もっともロッシーニは曲の使い回しが得意で、同じ旋律が複数のオペラ作品に登場しています。
それっていいの?と思っちゃいますし、だから作曲が早かったというわけでもないのでしょうが、
少なくともベートーベンのように練りに練って作り上げていたタイプではなかったようです。
ベートーベンは、オペラ「フィデリオ」のためにいくつもの序曲を作っていますから、ずいぶん違いますよね。
曲の使い回しについては、ロッシーニだけに限らず、著作権という法律がまだ定められていなかった当時では特に不思議なことではなかったようなんです。
現代は著作権が厳しい時代ですから、当時のような使い回しは考えられないことですよね。
ロッシーニが早いスピードでオペラを作り上げることは、セビリアの理髪師をたったの13日間で仕上げたという驚異的な早さからもわかりますが、
そのことに対して、ベッリーニという作曲家が「彼ならあり得るだろう」と言ったといいいますが、
その意味が単に筆が早いということだったのか、それとも過去の作品を切り貼りするから早いということだったのかそこまではわかりません。
とはいえ、自分の作品の気に入った部分を何度も使いたくなるのは、自然の気持ちであるような気がします。今みたいに録音技術もないからなんども聞いてもらえないですしね。
そういう風潮は別に普通のことで、もっと前のヘンデルなんかもアリアの転用は普通にやっていました。
さて、ロッシーニはモーツァルトが亡くなった翌年に生まれているので、モーツァルトと時代的にはかぶっていないのですが、モーツァルトをとても敬愛していたことがわかっています。
ロッシーニの作品はちょっとモーツァルトを感じさせるところがあるのもそのせいかもしれません。
ただ、モーツァルトが若くして亡くなり、また生存中は経済的にそれほど恵まれなかったことに比べると
ロッシーニは早くから恵まれていたと言えるのではないでしょうか。
20歳にしてイタリアのスカラ座で試金石というオペラを上演していますし。
現在ではモーツァルトの作品の方が多く上演されていて、ロッシーニはオペラファンでなければ知らない人の方が多いでしょう。
ところが、ロッシーニが亡くなってからは、セビリアの理髪師を除く他の作品はあまり上演されなくなったのも事実です。
その後イタリアではドニゼッティやヴェルディといった作曲家が出てきたということもあるようです。
ロッシーニの作品は、1900年代後半からようやく他の作品も日の目を浴びるようになり、イタリアでは「ランスへの旅」や「タンクレーディ」、「湖上の美人」なども上演されるようになってきました。
それにより、ロッシーニがブッファ(喜劇)だけではなく、オペラセリア(正歌劇)も得意だったということが再認識されたと言っていいでしょう。
実際これらのオペラセリアを見ると、セビリアの理髪師とはちょっと違うロッシーニの良さがあるんですよね。
ロマンティックで美しい曲はのちのイタリアのロマン派オペラの魁だと思います。
ロッシーニ・パリ時代
ロッシーニは30代の前半にフランスに請われてパリに移っています。
そして当時のイタリアオペラを中心として上演していたパリのイタリア座の監督に就任。
またグランドオペラを得意としていたパリオペラ座のためにも幾つかの作品を作ります。
それほどロッシーニはパリの音楽界でも引っ張りだこだったということですね。
ワーグナーがパリに訪れた際に、ロッシーニを見て自分もロッシーニのようになりたいと憧れたことからも、当時のロッシーニの羽振りの良さがうかがえます。
また、イタリアの作曲家ベッリーニの代表作の一つである「清教徒」はロッシーニが監督をしていたイタリア座で初演されていますが、
これもロッシーニが声をかけて実現したといいます。
ベッリーニの作品の中で唯一清教徒だけがパリで初演されているんですね。これも興味深いです。
さて、当時パリオペラ座ではグランドオペラと呼ばれる大掛かりなオペラが流行していましたが、
ロッシーニもグランドオペラの形式に合わせていくつかのオペラを作っています。
中でも代表なのがウィリアム・テルです。
ウィリアム・テルは4幕からなるグランドオペラで正味4時間もある長大なオペラです。
ロッシーニが37歳のときの作品。
序曲は有名ですし、ウィリアム・テルがりんごを射るときのアリアはとても感動的。
ところが人気絶頂と思われたわずか37歳という若さで、ロッシーニはオペラの世界から引退するという宣言をします。
その後は、フランス政府から悠々自適の年金をもらって生活ができていたようですから、
もうオペラはいいやと思ったのかどうか真意のほどはわかりません。
オペラ会の重鎮としての立場に疲れたのか、
いち早く著作権の法律を取り入れていたパリの締め付けが厳しくなりつつあったのか
もしかしたら料理研究家の方をやりたかったのか、想像するしかありません。
オペラの特徴と変遷
ロッシーニの音楽の特徴というとまずロッシーニクレッシェンドが浮かびます。
弱音から始まって徐々に大きくなっていくクレッシェンドの特徴は、特にブッファの方で効果的につかわれています。
しかしながらロッシーニのオペラ作品を見てみると、ずっとロッシーニクレッシェンドにこだわっていたわけではなく、微妙な特徴の変遷がうかがえます。
ロッシーニが10代から20代前半の頃の、作品の特徴としては主にファルサと呼ばれるオペラを作っていたことです。
ファルサというのは18世紀終わりから19世紀にかけてイタリアで上演されていた1時間程度の一幕もので、オペラ形式の一つなんですね。
ファルサ作曲の時代からすでにロッシーニクレッシェンドは現れていて、その後はロッシーニの典型的な形式となっていくのです。
その後21歳から、ロッシーニのオペラはファルサから現代のようなオペラの形式に変遷していきますが、
その最初の作品が「タンクレーディ」で、こちらは二幕もので2時間超の作品。
それ以降ロッシーニはオペラブッファとオペラセリアの両方を器用に分けて作っていきます。
特にブッファについてはロッシーニクレッシェンドが多く使われているのもこの頃の作品の特徴です。
そして25歳くらいからロッシーニの作風はまた変遷していきセビリアの理髪師とは異なるタイプの
ロマンティックなオペラセリアが特徴となってきます。
湖上の美人やセミラーミデなどはその代表でしょう。
なお、ヴェルディのオペラで「オテロ」というのがありますが、ロッシーニも同じ題材で「オテロ」を作っています。
ヴェルディのオテロが素晴らしいので、ロッシーニのオテロは影に隠れてしまった状態ですが、こちらもロッシーニとは思えないような迫力のあるオペラです。
ロッシーニのオペラの特徴は徐々にブッファ中心からセリアの方に変遷していったと言っていいでしょう。
そしてパリに拠点を移してグランドオペラを作るようになり、さらにオペラの特徴は変遷していきます。
いろいろ読んでいると、ロッシーニは生来怠け者の性格だったと書いてあるのですが、
オペラに関して見る限り、常に成長を続けていること、それにパリに行けばフランス人にあった作品を作り上げているところ、
さらにはオーケストラの有名奏者にも配慮して序曲を作るなど、
なかなかに気の回る人だったのではないかと思います。
美食家として
ロッシーニは早くにオペラの世界から引退して一旦イタリアに戻りますが
その後フランスに戻りレストランを経営し、美食家としての活動していきます。
もともと美食家だったロッシーニは、新しいメニューの考案にも積極的だったといいます。
「牛フィレ肉のロッシーニ風」というメニューは今でもありますが、
ロッシーニ風というのは、フォアグラとトリュフを添えている料理。
ロッシーニが度々企画していた晩餐のメニューの資料を見ると、
- 前菜
- 魚
- 肉
- パイ
- キノコ料理
- 七面鳥
- ドルチェ
- チーズ
という具合にものすごい種類の料理が出ていたのがわかります。
ちょっと気持ち悪くなりそうな量ですが美食家とはこういうもの?。
ロッシーニの画像を見るとかなり太っていそうですが‥。
当時のフランスはブリアサヴァランの美味礼讃がちょうど出た頃で、
フランス料理が変わりつつあった時代なんですよね。
現在のフランス料理は一品ずつ順番に出てきますが、18世紀以前はテーブルに全て並べて食べるような形式でした。
それでは料理も冷めてしまっていたと思います。
美味しく食べるための順番を考え、徐々に現在のような形式に変わってきたわけです。
ロッシーニのメニューを見ると順番に食事が出ていたことがわかりますが、とにかく種類と量が多いです。
しかもワインもそれに合わせてなんと6種類もつけているんですね。
- マディラワイン
- ボルドーワイン
- ライン地方のワイン
- シャンパン
- スペインワイン
- イタリアのワイン
フランスだけでなくスペインやイタリアのワインも入れているところをみても
本当に美食家だったのだと思います。
古代ローマの貴族はたくさん食べたいので、吐いてまた食べていた人がいると
読んだことがあります。
まさかロッシーニの時代はそんなことはないでしょうけど、それにしても日本人では考えられない食事ですね。
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