今回はオペレッタ「微笑みの国」についてです。
作曲はフランツ・レハールと言う人。
オーストリア・ハンガリー帝国の出身です。
レハールはオペレッタ時代の第二弾
今でいうならレハールはハンガリーの生まれなんですけど、彼が生まれた1870年ころは
オーストリア・ハンガリー帝国っていわれていたんですよね。
ハプスブルク家が統治していたハプスブルク帝国なわけです。
オペレッタの歴史にも書いたんですけど、オペレッタって、フランスでオッフェンバックあたりから始まって
ドイツ圏に入ってきて、スッペとかヨハン・シュトラウスなんかが出てきて一世を風靡するんですよね、これが第一弾オペレッタ時代。
ヨハン・シュトラウスは1825年生まれなので、レハールよりちょっと前の人なんですよね。
シュトラウスのこうもりができたのが1874年ですから、当時レハールはまだ小さな子供だったわけです。
なのでちょっと時代が違うんですよね。
レハールと比較的近いのはチャールダーシュの女王を作曲したカールマンあたりで
カールマンもハンガリー出身で、よりハンガリー色が強い作品を作っている人なんですよね。
チャールダーシュってハンガリーの音楽ですから。
というわけで、レハールの時代はオペレッタの第二弾の時代。
シュトラウスのあと一時下火になっていたオペレッタが再びレハールたちの作品で盛り上がってきたわけです。
レハールは、ヨハン・シュトラウスともカールマンとも作風が違っていて(私流に言えばですけど)
一言でいうなら、あまいあま〜い音楽。あまくて切ない曲。
そんなイメージです。
中国が舞台のオペレッタ
微笑みの国という題名とアジアの話というのだけ聞くと、タイが浮かびませんか?
タイって微笑みの国ともいわれますよね。
なので、私もこのオペラは最初はてっきりタイが舞台なんだと思っていました。
でも実際は中国なんですよね。
ただ、オペラとかオペレッタの場合、あまりその辺は気にならないというか。
蝶々夫人は日本人の話だけど、外国の女性が演じることが多いように、
どこの国の人が演じてもいいし、またどこの国の話か派あまり気にならなくて、
異国だなとかアジアかなとかそんな程度の気がします。
さて、微笑みの国を最初に見たときの中国大使のスー・チョンを演じていたのはルネ・コロでした。
正直言って全然中国の人には見えなかったです。金髪だし‥。
ルネ・コロって言えばヘルデン・テノールで有名になった人なんですけど
もともとはオペレッタ界の人だったんですよね。
私はかなりルネ・コロのオペレッタの作品を見ていたのでオペレッタの印象も強くて。
だからタンホイザーとかジークフリートをやっているとすごい変化だなあ!と驚いたんですよね。
さて、微笑みの国の初演は1929年。
こういうアジアの異国情緒の作品としては当時どんなものがあったかというと
- サリヴァンの「ミカド」が1885年(イギリス)
- マスカーニの「イリス」が1898年(イタリア)
- プッチーニの「蝶々夫人」が1904年(イタリア)
- プッチーニの「トゥーランドット」1926年(イタリア)
という感じです(実際はもっとあったんでしょうけど私が知る限りです)。
そして微笑みの国の初演は1929年なのでこれらに続く感じに見えます。
でも実は微笑みの国って改作で、前の作品があったんですよね。
それが「黄色い上着」(ドイツ語でdie gelbe jacke)というオペレッタです。
「微笑みの国」は「黄色い上着」からの改作で成功した
微笑みの国の特徴として、最初の作品のときは成功しなかったのに、改作版で奇跡的に成功したということがあります。
「微笑みの国」はレハールが自身の「黄色い上着」というオペレッタを作り直してから非常に成功して現在まで残ることになった作品なんですね。
カルメンのようにセリフをレチタティーヴォに変えてから人気が出たというケースもありますが、
前作がほとんど知られてなくて、直してこんなに有名になったという例は珍しいんじゃないかと思います。
最初の作品である「黄色い上着」というオペレッタは1923年に初演。
つまり微笑みの国の6年前です。
場所はウィーンのアン・デア・ウィーンという劇場でした。
今でもある劇場で、パパゲーノ門というのが有名なところですね。
1923年ということはトゥーランドットより先に中国ものを作っていたということになるわけです。
トゥーランドットも舞台が北京、そして微笑みの国も舞台は北京。
当時中国の北京がどうして人気があったのかはわからないのですが、どちらも同じ舞台なんですよね。
プッチーニってマスカーニがイリスで日本を取り上げたあと、蝶々夫人を作ったらしいし
北京を取り上げたのも、もしかしたらレハールの「黄色い上着」の影響?
なんて、また妄想がはいっちゃいました(笑)。
さて、元の作品である「黄色い上着」っていうので中国を扱うことにしたのは、台本を書いたヴィクトル・レオンという人の娘さんの案だったらしいんですよね。
ヴィクトル・レオンという人は、レハールの他ヨハン・シュトラウスとかスッペ、そしてサリバン(ただし日本を扱ったミカドの台本はこの人じゃないです)
など、要するにオペレッタの大御所たちの台本を手がけていた人だったんですよね。
すごいですよね。
で、この娘さんという人がアン・デア・ウィーン劇場関係者と結婚していたらしく、
どうもその関係もありアン・デア・ウィーン初演なんだなと思うわけです。
まあアン・デア・ウィーンと関係があったから結婚したのかもしれませんが。
ところがこの娘という人は若くして死んでしまったため、自分の発案だったオペレッタを見ることはできなかったらしいです。
レハールはよほどこの作品に愛着があったんでしょうね。
だって改作してうまくいかないリスクだってありますから。
まあそれは余談としても、結果として微笑みの国は後世まで残ることになったのですから、改作した甲斐があったというものですよね。
ちなみに内容的には、微笑みの国ではスー・チョンとリーザは最後は別れることになるのですが、
黄色い上着の方では、ハッピーエンドです。
スー・チャンは中国に戻るよりリーザ(名前は違うけど)を選んで二人は結ばれるという結末なんですね。
また黄色い上着にあったダンスが微笑みの国には無いとか、歌が無いなど。いろいろ改作したようです。
台本作家も違います。
また微笑みの国の第二幕には黄色い上着の授与シーンがありますが、ここについては、新たに作られた短い版と、もともとあった長い版があって、
上演の際指揮者が選択できるらしいんですよね。
最初に見たときはそれがどっちだったのかわからなかったのですが、次に見る機会があったらここは注目かなと思っています。
ナチスの悲しい事実もある
さて、改作後の「微笑みの国」の初演の場所は
ベルリンのメトロポール劇場というところでした。
この劇場は1898年に設立。
ベルリンのお金持ちのブルジョワジーや貴族達のために作られた劇場でした。
写真で見る限り、ちょっとフォルクスオーパーを感じるような外観ですが、
中は2600人収容ですから、ずっと大きかったようです。
そして初演の1929年といえば世界的な恐慌が始まった年でもあります。
そして、ヒトラーのいるナチスが力を持ちはじめた時代でもあります。
そうなのです、レハールとヒトラーは同じ時代なんですよね。
レハールのことを見ているとなぜか必ず出てくるのがヒトラーの名前です。
ヒトラーがレハールの代表作である「メリーウィドウ」のファンだったとか。
またレハールの妻がユダヤ人であったのにレハールがお気に入りだったから救われたとか。
改作後の微笑みの国の台本は二人いて
- ルートヴィヒ・ヘルツァー
- フリッツ・レーナ・ベーダ
の二人でした。
このうちフりッツ・レーナ・ベーダという人はアウシュビッツの強制収容所で殺されているのです。
この人はレハールに命乞いを頼んだとか。
またレハールがヒトラーに拒否されたとも‥。
そして彼は途中で収容されていたブッヘンヴァルト収容所である歌を残しているのです。
それが Das Buchenvaldlied(ブッヘンヴァルトの歌) というものでそこから生き延びた人もいたので残っている悲しい歌です。
中でも
「ブッヘンヴァルトを去るものだけが、自由がどんなにすばらしいのかがわかる」
という部分には胸が打たれる気がします。
微笑みの国というオペレッタは、とてもメロディアスで美しいのに、そんな音楽とは裏腹に当時はナチス時代だったというのが垣間見える作品でもあるのです。
コメントを残す